哲学・倫理学のレポート。
主に仏教をテーマとした講義の内容要約と、それに対する意見です。
<授業内容要約>
我々が何かを考える時には、その前提として必ず「形而上学」が存在する。
「形而上学」とは、特定の文化圏に生きる人々の物の見方、世界認識、知の在り方などを根底において規定する基本的枠組みのことである。つまりは、ある特定の時代・地域における「思想」や「哲学」のことである。そして、この「形而上学」は、その文化圏の伝統に基づいている。
西洋では、プラトンやデカルトに代表されるような「魂=精神=主体」と「身体=物質=客体」の二元論が伝統となり、その「形而上学」を形成している。また、やはりプラトンやデカルト、そしてカントが主張した「『常に』正しい」「『常に』良い」ものが存在するという考え方、則ち普遍的なものがあるという考え方も、西洋の伝統となってその「形而上学」へと反映されている。このような思想は、一神教であるキリスト教とも関連が深い。
ところで、このような「形而上学」というものが存在しているということを発見したのは、ハイデガーであった。自分たちの「形而上学」を、「哲学」や「倫理学」として解体していくという発想は、自分たちが存在するもの全体のうちにいながらその全体を見渡すことのできる特別な位置に立つことができると思う事ができるような特殊な場所、すなわち西洋でなければ存在し得なかった。そして、このような西洋の特殊性は他者をモノとして見る視点を西洋に許し、資本主義、帝国主義の台頭を招くことになった。
一方、日本では、自然なもの、ありのままのものを尊ぶということが伝統になっている。これはフロイスの「ヨーロッパ文化と日本文化」から読み取れる。
また、柳田国男の「先祖の話」に見られるように、死んだ先祖の霊が永久に国土のうちに留まり、そう遠方へは行ってしまわないという伝統的な考えもある。これは念仏供養の功徳により必ず極楽浄土へ行くという仏教の教えと一見反しているように思える。しかし、仏教が一神教の宗教と違い一律の教義を持たず、苦しみからの解放という目的は共通であるものの救いを求める人々それぞれの悩みに応じて説き方を変えてゆく教えであるということを考えると、日本の伝統に即した形で仏教が変化したと考えても矛盾は生じない。
日本は列強のアジア進出に対抗するため鎖国を廃止し、明治維新により積極的に西洋の「知識」や「技術」を取り入れ、学校教育で国民にその「知識」や「技術」を習得させた。
ところで、そもそも学問とは何だろうか。それは、「自分にとって切実な問い」のことである。「自分にとって切実な問い」 とは、自身に伝統的に規定された認識的枠組み、則ち自身の「形而上学」の中から生まれた問いのことである。つまり、何かを考えるとき無意識的に使う「思想」や「哲学」の枠組みの中で疑問に思うこと、これが特定の時代・地域の伝統を最先端で受け継いでいる「自分」にとっての「切実な問い」なのである。
日本が明治維新で取り入れた「知識」や「技術」は、西洋の「形而上学」における「切実な問い」から生み出されたものであった。日本人は西洋の「思想」や「哲学」を「知識」という形で受容はしたが、自身に伝統的に規定されている「形而上学」を変化させることはしなかった。つまり、日本人は、普段は自身の「形而上学」に基づいて生活するにも拘らず、西洋の「思想」や「哲学」の「知識」を学習する時にのみ西洋の「形而上学」を用いて思考したのである。
日本人が 西洋の「形而上学」を自己のものとせぬまま、その「切実な問い」から生み出された「知識」や「技術」といったものだけを真似することは、西洋人からすれば虚栄のみならず、不遜に思われた。
結局のところ、西洋的な「思想」や「哲学」が切実に問題とすること、例えば「人間の意識(精神)と身体(物質)はどのようにして相互作用し合っているのか」「主体(精神)は自らの外部にあるもの(物質)をどのように認識するのか」「主体(精神)は自分の身体を完全に制御することができるのか」「物質である身体に、どのようにして精神が宿るのか」などといった問いは日本人にとって完全には「切実な問い」とならなかったのである。この矛盾が、現代の医療現場における臓器移植、安楽死に拘る様々な倫理的問題として現れている。
さて、日本では和辻哲郎が、西洋がその哲学・倫理学により資本主義・帝国主義に陥っていったという事実から新たな倫理の必要性を感じ、単なる西洋の知識の輸入ではない独自の倫理学を打ち立てた。彼によれば、我々はそれぞれ知的・風土的な特殊性の中に存在するが故に、それぞれ異なった伝統・思想を持つ。従って、例えば、プラトンやデカルトの伝統に支えられた、西洋人の「人間は神の目を持っているかのごとく普遍的な認識ができる」という思想は、日本においては「形而上学」たりえないのである。故に「普遍的道徳」は、ある「形而上学」を伝統的に共有する特定の歴史的・風土的な集団、則ち国民の間においてしか「普遍的」たりえない。
和辻はこのような様々な歴史的・風土的に規定された集団が存在する、という考え方を、大乗仏教の僧ナーガルジュナの言葉を用い「空」と表現した。ナーガルジュナの「空」とは、すべての事物は因縁によってできた仮の姿で、固定的な不変の実体を持たないという意味である。具体的な人格である個人も、親子、夫婦、村、国などといった共同体の中に存在しているという意味で、人間は個であると同時に集団だ。そして個人の思惟は、彼の所属する特定の歴史的・風土的に規定された集団を通じてしかその意志、行為を規定することができない。故に、個人は固定的な不変の自我を持つものではないと言える。個人にとって、その所属している集団が個人を個人たらしめているのである。従って道徳
とは、個人が自分を個人たらしめる地盤、則ち集団の全体性を意識し、それに従うことである。
和辻の基本的なスタンスとして、西洋の「形而上学」を学んだ上で改めて日本を振り返る、ということがある。こうすることにより、日本の伝統によって生み出された日本思想を、彼の言う「空」の視点で客観的に論じることができる。
和辻の理想は、人類の精神的世界の統合、そして過去数千年来の人類の「形而上学」が弁証法的に発展し人類全体に生かされることであった。これこそが和辻の「人間としての倫理学」である。これを実現するのが、儒教及び仏教が根強く残る文化圏に生き、かつ西洋の学問に通じている日本人なのである。
ただ、この和辻の考え方は、先述したような意味で「切実ではない」と批判される他、和辻の「空」はもともと相手のレヴェルに合わせて異なった教え・実践法を教えるという対機説法である仏教を「普遍が個別に現れる教え」という宗教であると文献的に理解したものであり、ナーガルジュナの「空」とは異なると批判されることもある。また、そもそも和辻の「人間の学」は天皇制に基づく全体主義を強調するなど国家の倫理学である、という批判もある。
<意見>
私は「伝統が思想になる」ということ自体が、特定の歴史的・風土的な集団においてしか有り得ない、と考える。
和辻が生きたような時代においては、まだ他地域との交流は今ほど活発ではなく、ましてやインターネットを通じた国際的・即時的な情報伝達など考えられなかったことだろう。そのような時代においては、確かに地方ごとの伝統的な価値観が強く、思想もそれに基づいたものにならざるを得なかったことだろうと考えられる。
しかし第二次世界大戦後から高度経済成長期を経て、日本社会は従来のような家族制度を失い、また冷戦終了後は全世界的に押し寄せたグローバル化や新自由主義の波によって国家という枠組みも強固なものではなくなった。このように集団への依存度合いを低めた人々は、個人として自由に行動できるようになった。したがって、「形而上学」は集団に1つといったものではなく、集団を構成する個人それぞれが個々別々に持つものへと細分化したと考えるのが妥当ではあるまいか。
確かに、自然なものを尊ぶ日本の「形而上学」は、現在も生命倫理の場における「臓器移植は不自然ではないか、提供者はあの世で不自由するのではないか」というような議論などにも残っている。しかし、これが議論になるということ自体、則ちこれに対抗する考え方も成立しているということ自体が、逆に国民道徳としての日本の「形而上学」が崩壊しているということを表していると考えられる。
「形而上学」がバラバラになってしまった今、和辻の唱えた「人間としての倫理学」は、もはや望みうるべくもないのだろうか。私は、それは違うと考える。
人類にとって最も切実な問い。それは「自分は何の為に生きているのか」ではないだろうか。私は、人間は学ぶ為に生きている、と考えている。人間の生きる意味について、それこそギリシャ時代より現在まで数多くの思想家が様々に議論を交わしてきた。中には釈迦、ショーペンハウエル、ニーチェのように「生きる事は苦である」、「生きる意味などわからない」と言う思想家もいた。
私も、今現在、私が生きている真の意味はわからない。こう書くと、先に述べた「人間は学ぶ為に生きている」ということと矛盾しているように思われるかも知れない。「意味があるのかわからないから勉強などしない」というのは子供がよく使う怠学の口実であるが、私は勉強の意義は正にその「意味があるのかわからない」というところにあると考える。
当たり前のことながら、今日、ありとあらゆる研究機関において行われている最先端の研究は、すべて過去に由来するものである。我々は、既に持っている知識と新たな経験により、帰納法的ないし弁証法的に知識を増してゆく。また、我々は言語や文字、印刷やインターネット等の技術の利用により、自分一人では得る事ができない知識・自分の生きている時代や場所だけでは得る事ができない知識も得ることができる。
ここで明確に推測されることは、人類史の頁数が増すほど、人類が持つ知識も多くなるだろうということである。つまり、人類全体としては昨日より明日の方が様々な知識を持っていると予測される。そしてグローバル化の波にのって、これらの知識は、単に地球上にあるだけではなく、人類皆が共有するものになってゆくと考えられる。
ところで、「知らない方が良かった」ということは知った後でしか考えられない、というのは当たり前のことである。知らないことについては考えられないからだ。同様に、人類の生きる意味に関しても「意味は無い」と言い切れるとすればそれは人類が全宇宙の法を把握し神となって後にそれが判明した場合、あるいは全人類が神となるより前に滅亡するまさにその瞬間に人類最後の人間がそう思った場合のみである。
我々が勉強する意味というのは、この「まだ知らないことがある」という一点に尽きる。私のこの考え方が正しいのか、正しくないのかすらも、人類が神となる、あるいは滅亡するという究極の時までは判断できない。しかし、神となるため、出来るだけ神に近づく為に、我々は勉強するべきであるということだけは確実だ。例えその結果として導きだされそうな答えがどうしようもない否定に思えたとしても、まだ知らないことがある以上、必ずしもそうなるとは限らないのだから。
昨日より明日の方が我々はより幅広い知識を持っているだろうということは、既に述べた。つまり1秒でも「今現在」に近い時点で生み出された知識の方が、過去の知識に新たな経験が加わった、過去の知識を数段階止揚して生み出された合であるという意味で、知識としてより洗練されたものである。故に、ある時点から一番近しい過去に生み出され広まった知識は、それが人類史上最高である保証は全くないが、少なくともその時点における最高の、最も神に近い知識であると私は考える。
地動説について考えてみよう。かつて、人々は伝統的な信仰に基づき、太陽が地球の回りを巡っているということを当然のように考えていた。しかし現在、それは科学的に否定され、一般的には地球が太陽の回りを巡っているということが正しいとされている。現代に生きる我々は、その意味で、中世の人間よりも神に近しい存在なのである。例え、地動説が誤っていたとしても、則ち本当の本当は天が地球の回りを巡っていたのだとしても、我々が現在このような知識に基づきこのような知識を持っていたという知識は、未来の、より神に近い人々の知識の中に吸収されてゆくことであろう。
我々の問いに対する回答の選択肢は、人類史の頁数とともに増え続ける。そのうちのどれが正しいのかは、結局、先に述べたような究極の時までわからない。我々は知っていることについてしか考えられない以上、知っている選択肢、それには「わからない」という選択肢も含まれるが、この中からしか答えを選ぶことができない。人類が神になるのを待たずして全滅してしまう場合には、人類が持っている選択肢の中に、則ち人類最後の人間の知識の中に、正答が存在していないということも有り得るのだ。その場合の正答は、もしいるとすれば、神のみぞ知る。
このように、持っている知識が増えれば増えるほど、人類は神に近づくと考えられる。そして我々としては、知らないことがある以上、神に近づくことが最大の目的である。そういった意味で、究極の時とは、つまり最後の審判だ。我々は最後の審判に向けて、弛むことなく、知識の習得に努めなければならない。
昨日よりは今日が良い。今日よりは明日が良い。どれだけ現代社会が嫌な、汚れた、窮屈なものであったとしても、過去から繋がって存在している以上、今日という日は縄文時代より素晴らしい日として生まれてきたのである。我々は学ぶことにより、未来を築く方向性を探る。そうしてやってくる明日は、無条件に、今日よりも素晴らしい。
以上のことから、私は今人間がここに生きているのは、勉強によって過去を出来る限り学び、そして得た知識により未来を創造することを繰り返すことにより、人類全体の知識を神に至らしめることに貢献する為であると考えている。そして、この思想は必ずしも現在の分散した「形而上学」を全体主義的にまとめて画一化させるような暴力性を持たず、かつ、万人に共通な切実なテーマを考えさせるものとして、新たな「人間の学としての倫理学」たりえると考える。
時代にそぐわない和辻の思想は、今ここに止揚されるべきだ。
・・・意見を書いている途中でノってきて、やたらと語ってしまった。
ちゃんと単位もらえるといいなぁ。
偉そうなこと言ってますけど、日々勉強不足な私です。残念。
いより
追記:
某所から、「フォイエルバッハ論」を読め! とのツッコミを頂きました。
どうやら似ているらしいです。
なんつーか、エンゲルスさんゴメン。パクったつもりはなかったんですけど。
夏休み中には読ませて頂きたいと思います。