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近代イギリス社会と同性愛
どうも、いよりです。 腐ってはいませんよ。念のため。 前々回:ギリシア社会と同性愛 前回:中世ヨーロッパ社会と同性愛 「『ヨーロッパにおける同性愛』シリーズ」最終回です。 今回は、近代イギリス社会における同性愛について見ていきます! イヴ・K・セジウィックのホモソーシャル論によれば… ヨーロッパ近代社会は、家父長制に見られるような極端な男性中心の社会であるという特徴を持っています。これを支えたものが、ヨーロッパ近代社会に見られた「男性同士の社会的な絆・結びつき(=ホモソーシャルな関係)」です。これは具体的には、男同士の友情、女性嫌悪、師弟の絆、権力、ライバル意識などの形をとって現れ、男性による社会支配構造を正統化しました。 特に支配に関わる公的領域では、精神的・制度的な男性同士の連帯関係が推奨・強調され、ホモソーシャルな関係の中にもともと見られる男性間の性的欲望を表に出さないこと、男性間の性愛つまり同性愛をスケープゴートとして抑圧し排除してゆくことで支配構造の安定を保つという仕組みになっていました。 そこで近代社会のホモソーシャルな関係は、少なくとも社会の公的領域において、同性愛への極端な恐怖と嫌悪(=ホモフォビア)を産み出していきました。と同時に、この同性愛排除のメカニズムが、少なくとも近代社会においては異性愛VS同性愛という図式化、二元化をもたらし、異性愛結婚により女性を「家」という空間に閉じ込め男社会の外へ、私的領域へと排除してゆく結果につながりました。 つまり、「キャーあの人ホモです!」と叫ぶことによって、自分にやましい考えがないことをアピールする。同性愛という「異質」を設定し迫害することで、「そうではない我々」の結束力を高める。そこで「男性」に対する「女性」という意識が強まり、女性には女性らしさが求められるようになった、というわけです。 もっと詳しく見ていきましょう。 この時代、同性愛が行われる場としては、地域共同体の枠内、特に直系親族二世代+奉公人からなる同一のハウスホールド内といった近接関係の中での同性愛が一般的だったようです(決して行きずりの関係ではない)。ベッドを共にする使用人同士の関係で強制的行為がいきすぎたときのみ裁判沙汰になったようですが、家長と使用人の関係の場合は家父長制により大目に見られていたそうです。教会の聖職者と教区の少年、床屋と隣人の息子、それから教師と生徒などの関係もありました。 都市における同性愛売春としては、街頭や公共の場所での「ちょっと、そこのおにーさん」といった売春だけではなく、男娼宿(男娼の置屋・・・男娼が客を接待できる居酒屋のような場所)もあったそうです。また、ある家に名目上は使用人として住み込んでいる若者が、家長と売春の含みをもつ関係を結んでいることもありました。こうした若者はギャミニード(ゼウスに気に入られた美少年ガニュメデスから)と呼ばれます。それから、ロンドンの劇場は役者とパトロンとの関係に限らず、男娼と男色者が現れる場であったようです。 Ganymede (ガニュメデス) 当時、同性愛は傲慢・過食・怠惰・貧者蔑視から生じると言われていましたが、当時の理屈からすると、ある意味で理にかなっているということができます。経済的、社会的な権力といった、その時代の力関係によって同性愛の関係は決定付けられていたのですね。 17世紀後半まで、都市での同性愛売春宿は、いわば公認されていました。しかし18世紀には激しい弾圧にあい、同性愛売春宿は非公認のサブカルチャー、地下に潜む存在となってゆきます。 同性愛に対する激しい非難の言説と、実際には同性愛が社会で広く行われていたという事実は、果たして矛盾しているのか? という問いに対し、アラン・ブレイはこう説明します。 「同性愛に対する深い恐怖・批判が一方にありながら、実体として同性愛慣行がもう一方に存在していた。両者は一見矛盾しているようだが、当時の人々は、神話や象徴としての同性愛と、身近で日常的に行われていた同性愛とを同一視せず、あえて分けて考えていたから矛盾にはならなかった」 これに対し、スティーブン・オーゲルはこう批判します。 「英国ルネサンスの文化は、男性の同性愛に対して、病的恐怖を抱いていたようには見えない。むしろ、青年男子が少年を愛することは、女性が男を愛することよりも本質的にのぞましいと考えていたふしがある。枠組みから言えば、同性愛はそれが反社会的で危険だと認知されるようなほかの行為(無神論、カトリシズム、暴徒扇動、魔女の妖術、義務違反など)と重なるとき、はじめて目に見えて批判されたのだ」 17世紀においては、厳密には「同性愛」という言葉は余り使われず、buggerやsodomiteという、より広い概念をもった語が使われていたようです。例えば、「売春婦、少年、そしてヤギを愛するbugger連中」、「男や動物に対するsodomite的な悪行」といった記述がされていたようです。同性愛は、こうした言葉(一言で言えば、淫蕩、でしょうか? )の意味のごく一部にすぎませんでした。これは「ソドム」や「リトル・ソドム」という名の女郎屋が存在した、ということからもわかると思います。 エリザベス、スチュアート朝イギリスにおいて同性愛は、「魔術師、sodomite、異教徒」、「ローマ教皇礼賛者、アンチ・クライスト(イギリス国教会から見た教皇)の従者、恐るべきスペイン国王の部下、そして男色者」といった文化的カテゴリに位置づけられていました。創造主や自然の秩序に反する、無秩序な性的関係、秩序を解体する危険性をはらんでいるもの一般と同列に扱われていたわけです。 こうしたものが強く弾圧された要因として、17世紀における「神の摂理」という考え方に触れておきましょう。これは一言で言えば「小宇宙と大宇宙は相互関係にある」という考え方、則ち「身の周りの出来事と天変地異は相互作用する」という考え方です。その典型的なモチーフが、「怒れる神の手によって『ソドミーでいっぱいの溜め池』であるソドムとゴモラの町に加えられた破滅の一撃」というイメージでした。これが「ソドミーを処罰しないとこの国に恐ろしい天罰を招くことになる」として、全体の秩序回復のためにソドミー個人を罰しよう、という意見に繋がっていきます。 つまり・・・ この時代の文化コードの中で、ソドミーは、いわば象徴として用いられることに意味があったのであって、同性愛に対する本質的な恐怖ではなかったようです。「神の摂理」によって厳しい罰が加わったと当時の人々が考えるとき、その理由と人々が考えるところのものは、同性愛単独ではありませんでした。むしろ同性愛は、数ある理由のうちの一つとして付け加えられるものにすぎませんでした。 まぁ、エリザベス女王の後継者、ジェームズ1世となったスコットランドのジェームズ6世はゲイだったわけですけど。しばしばジェームズ1世が宮殿で催すゲイ宴会を見かねた延身のひとりが「もう少し努力なさったら(臣民のための努力。もっと浮かれて大騒ぎをしろという意味ではないので、念のため)」と諌めたところ、この王様、「この野郎! ズボン脱いで、ケツを見せてやる!」とわめいたとか何とか。ちなみに「神の摂理(=providence)」、これはクロムウェルが演説でよく使用した言葉だそうです。 土地などで争いになった時に、「あいつはカトリックだ」とか「あいつは男色家だ」とか叫ぶことで、相手を死刑にすることもできたとかいう話です。いつ自分がそのようなことを言われて酷い目にあうかわからないため、お互いがカトリックや同性愛を摘発する立場として相互監視を行うシステムが出来上がっていきました。そうした相互不信の1つが同性愛嫌悪=ホモフォビアにつながり、同性愛売春宿の摘発、「女性」イメージの固定化に繋がったのです。 汚らわしいことをしていると、天罰が下るみたいですよ。 そこのお兄さんも気をつけて。 いより [参考文献]
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中世ヨーロッパ社会と同性愛
どうも、いよりです。 夏休みになりました。有意義な過ごし方をしたいです。 さて、前回(「ギリシア社会と同性愛」)から結構な間が空いてしまいましたが・・・。 今回は「中世ヨーロッパ社会と同性愛」について、まとめてみたいと思います。 <古代から中世にかけて> ローマ帝政初期においては、売春というものは男女ともかなり複雑に発展しており、性別、年齢、性交時の役割などによってそれぞれ異なった言葉があるくらいでした。衣服の色と種類によって、受け手(catamiti)と仕手(exoleti)がわかるようになっていました。 ローマ帝国初代皇帝のアウグストゥスが、売春を生業とする少年の為に法定休日を与えた、という史料があります。また、五賢帝の1人であるハドリアヌスにはアンティノオスというギリシア人の恋人がいた(ちなみにハドリアヌスが「受け」)という資料もあります。前回触れたように、古代においては身分の高い人が同性愛の「受け手」となることは悪だと看做されていました。カエサルもビテュニア(小アジア北部の国)の王ニコメデスとの男色関係(カエサルが「受け」)でかなり評判を落としたと言われます。しかしローマ帝政初期のこの偏見は同性愛の受け手であることを自他ともに認める皇帝らが輩出した結果、下火になりました。 アウグストゥス帝 ハドリアヌス(左)とアンティノオス(右) ローマ帝政末期の危機において、政権中枢がガリアなどの属州出身の軍人・貴族に取って代わられ、神権的専制政治(絶対化)がすすむにつれて、中央による個人の私的生活側面への介入・干渉が目立つようになりました。390年のテオドシウス法典で初めて男性に売春を強要した場合は死罪、と規定されます。また世間の風潮もゲイ否定の方向へすすみます。 「ローマ都市社会の解体・より狭量な政治的・倫理的指導者層による支配が、性的自由の制限をもたらした原因であるということができる。そのローマを超えて唯一生き残った組織であるキリスト教は、一部の神学者を通して、この後期ローマ帝国のかなり偏狭な道徳観をヨーロッパに伝えるパイプになったにすぎない」と言ったのは、本人もゲイであるジョン・ボズウェルという学者です。 同性愛に対する人々の態度にキリスト教が及ぼした影響は、少なくとも中世初期においては大きくありませんでした。旧約聖書の創世記に見られるソドムの市の破壊とソドミーとの関連性を検討すると、古くさかのぼるほど、同性愛的行為の流行が神の怒りに触れたのだとする見方はとられなくなるようです。初期キリスト教禁欲主義者たち(パイプになった人たち)がその解釈を変えていったのです。 西ゴート王国(スペイン)は650年に同性愛行為を行う者に去勢を課す法を制定しましたが、当初教会はその試みに非協力的だったようです。6世紀前半の『ベネディクトス会則』(聖ベネディクトスが定めた修道規則)は、むしろ同性愛行為が教会で広まっていた事実の裏返しとして読むことができます・・・曰く、「若者同士が一つのベッドで寝るときには、間に年長者が寝ること」「夜は明かりをつけて寝ること」「寝るときには服を着て寝ること」などなど。 11世紀から12世紀、都市の復活とルネサンスによってイスラムを通じ古代の学問が流入、同性愛への寛容が強まり同性愛文学が開花します。この時代、聖職者間の同性愛を声高に批難した聖職者が教皇から「そんなに目くじらたてるようなことでもないですよ」、とやんわりたしなめられていたり、修道院の院長が修道院内での男性間の愛を正統化しようとしたりしています。 また、この時代は世俗でも同性愛者の例が多いです。例えばリチャード王1世は十字軍以前にフランス王フィリップ2世と食事もベッドも共にしたと言われます。 1178年の第三回ラテラノ公会議では、金貸し、異教徒、ユダヤ人、ムスリムと並んで同性愛者への制裁が初めて定められました。十字軍活動によってかきたてられたイスラム的な性の慣習(とヨーロッパ人が決めつけたもの)への反発が、同性愛への敵意とすりかわっていったようです。このような状況から、次第に同性愛VS異性愛という論争が出現しはじめます。ローマ=カトリックのみならず、ギリシア正教においても同性愛は獣姦と同じ類として看做されるようになります。 特に13世紀以降、ヨーロッパ社会では社会の少数派・弱者(異教徒、異端、ユダヤ人など)にレッテルを貼る動きが出てきます。同性愛者もその攻撃の対象となりました。フランスの地方慣習法、カスティリヤ王国の法、イタリア都市法などで同性愛取り締まりの法令化がすすみました。「市民のプライベートな生活をも次第に規制しようとする実質的な権力を持った『国家』の出現がその原因である」とボズウェルは述べています。 14世紀初め、ダンテは「神曲」のにおいて、ソドミーを煉獄の最上部、色欲におぼれた人々とともに位置させています。時代の空気は、確実に変化していったのでした。 同性愛に対する弾圧は12世紀後半から始まり、13・14世紀を通じて定着しました。その後、同性愛はヨーロッパ社会最大のタブーとなったのです。 ところで・・・ ギリシア・ローマの文化を自らの母体とあがめた西ヨーロッパ人は、これらの時代の同性愛への寛容さだけは受け継ぐことがありませんでした。この極めて意図的な選択はどのようにして起きたのか? ・・・答えは未だ不明だそうです。 そんなこんなで。 いより ー参考文献ー キリスト教と同性愛―1~14世紀西欧のゲイ・ピープル(ジョン・ボズウェル)
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ギリシア社会と同性愛
どうも、いよりです。 先日、大学で受けた講義が面白かったので、要約してみます。 <<ホモセクシュアリティとは>> ホモセクシュアリティとは、同性の者同士が、何らかの性的交渉をも含む相互関係を土台として築き上げるひとつのライフスタイルである。 要するに、同性愛は性行為だけのことを指すのではありませんよ、と。 ちなみに「異性愛」は「ヘテロセクシュアル」って言うんですね。生物選択だった身としては、あぁ! って感じなんですが、余りよく聞くワードではない気がします・・・。 <<古代ギリシアの同性愛>> 古代ギリシア人男性の同性愛行動は、だいたいが成年男子×少年 古代ギリシア人にとって、成年男子が少年との接触により性的快感を得たいと願うことは正常、自然なもの。上品で名誉なこと、賞賛に値すると見なされることも アテネの法律・習慣も、伝統に従う限り、このような欲望の性的表現を禁止することも罰を与えることもしない 古代ギリシアの同性愛は、通常こんな感じだったようです。「攻め」「受け」がハッキリしているのが特徴です(この点、日本の藤原頼長なんかは攻め受け両方やったりしているわけですが・・・話が逸れるのでやめておきます)。 古代ギリシアは、ファロス像(男性器像)があちこちに立っていた(むしろ「勃っていた」? ゲフンゲフン )ことからもわかるように、男性原理支配が強い社会でした。ここにはたらいていた女性嫌悪原理をミソジニーといいます。 このミソジニーの為、女性役、則ち「受け」は、大変屈辱的なことであると看做されました。例えば、ペルシア戦争で敗北したペルシア人を掘ろうとしているアテナイ人の絵が書かれた壷が残っていたりします。また、妻を寝取られた夫などは姦通の現場を押さえた場合、姦夫を殺しても良かったのですが、もう一つの報復手段として姦夫の陰毛を焼き払い、大きな二十日大根(!)をその肛門に押し込むことで赤恥をかかせることもできたのだそうです。ちなみに陰毛を焼いて短くする、というのは、当時の女性の習慣です。 にしても殺すか二十日大根かって、ねぇ・・・。 ギリシアにおける同性愛は、このように「上下関係」が明確に定められたものでした。なので、「売春をしたもの」「男妾になったもの」などは、民会で演説したり官職に就いたりすることができなくなります・・・国の偉い人が、「受け」であっては社会秩序が保たれないんですよね。 社会秩序とホモセクシュアルが結びつくのは、ギリシアのみならず、日本やイスラーム圏でも同様な記録が残っています。男性が権力を握る社会でしたから、こういう「男性と男性の繋がり」は、ある種の疑似家族関係を築くもの、男性同士の絆を深めるものとして重要視されていたようです。歴史的にレズビアニズムに関する資料が余り残っていないのは、このような事情によるものだと思われます。 <最後にちょっとオマケ> 古代ギリシアにおける「やらないか」のサインについて。 古代ギリシアにタイムスリップしたとして、もし貴方が成人男性で、良い感じの美少年を見つけたときには、 「相手の正面に立ち、右腕を差し伸べ、左腕を軽く上に曲げる」 これで大丈夫です。 左手に贈り物を持つと尚良し! です。魚、兎、一才雄鳥などが喜ばれるでしょう。 また、貴方が美少年で、成年男子からこのようなジェスチャーをされた場合は おっけー・・・「差し出された相手の右腕を両手で受ける」 やめてください・・・「右手で、差し出された相手の右腕を掴んで止める」 で対応しましょう。 そんなこんなで。 そういえば、久しく二十日大根を食べてないなぁ。 いより 授業で紹介された参考文献。
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